昭和四十七年八月十三日 朝の御理解

x御理解 第六十二節 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれ           というておるが、神信心をしても、わが身の上におかげを受           けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一           段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 今朝から御神前で、頂きます事がz久留米の日幟織りというのがありますよね。私は久留米の日幟織りでございますもんというあの歌です。
 それから、テレビでいつもコマ-シャルをやっております。z臭いものをとるという便所なんかに使う薬の宣伝でしょうか。あの時に臭いものをね「根から断たねば駄目」というのがあります。
 只、ちょいとごまかしただけではつまらんというのでしょう。「根から断たねば駄目」という、この二つの事を頂いて、そして今日はこの六十二節をどういうふうに、それから頂いたらよいかと思うておりましたけれど、今朝から又一冊ここに、これはゆうべ持って来たのでしょう、ここに置いてありますもの。
 それでこれを開いてから、見せて頂いておりましたら、もう一通り見せて頂いとったら,皆さんの御祈念がすんだという事ですけれども、見だしたら止められないですね。私がそん時そん時に実感を込めて頂いたものやら、ほんことそうだと思うて、ちょっと走り書きに書いてあるものですがら、あん時はああじゃった、あん時はあげんじゃった、あん時はこうじゃったというようなね。
 例えばここに、こんな小さいこんな紙きれに書いとるとですよね。これなんかはやはりあの、神様に頂いたのを、そのままそこにあったのに、書いておる小さいたったこれくらいだけれども、わざわざここに一冊を費やしてはっておるところなんかね・・・・。
 どげん書いちゃるかと言うと、「要するものは有るもの」と書いちゃる。私共が必要と思うものは、絶対そこにあるんだと。だから、それが頂けないなんて事は、まあだまあだ、信心が足りんのだという事ですよ。
 実際は要るものは有るものと。無いものを要ると思うはずはない。私共が生活の上に様々なものが必要なんですけれども、その必要なものはどこにか有るんだと必ず、というような御教え触れさせて頂いて、あただにこれは私が頂いとるとじゃけん、私が一番実感に感ずるのは当然なんだけれども、そういうわけで、今日は御理解をまとめる時間がなかったんです。
 この六十二節と、私が御神前で頂いた事をですね、けれども、皆さん、日幟織のお知らせの事から、又は「臭いものは根から切らなければ駄目」という事。
 本当に私はそう実感致します。そこでこの六十二節で、人よりわれはなおよけれと言うておる、わが身の上のおかげを受けてというところ、わが身におかげを受けてという事は、やはり信心というものが、丁度日幟を織っていくようなものだとわからせて頂くこと。
 それを決定づけるものは、やはり心からの改まりだという事。“日幟を織りよりますと、村の若い衆が来て、遊ばんの遊ばんのと言うけれど、遊ぶともよかばってん、遊びよると日幟が織れまっせんもの”という、そげなふうな歌ですよね。
 私は信心というのは日幟織りのようなもんで、なからにゃいけんと、もうその日々織りあげていくもの。しかもね、あれが一糸乱れれば、一糸の絆の図板の上に狂うてくる。ひと一の糸が狂えば、もうそれだけ絆が乱れるという事。
 信心生活とはそのくらいな難しさというか・・・・・それからというて、日幟の織れれるそんなら娘さんが、日幟を織る気になりゃ、毎日日幟が織り上げられていくのです。一本、一本の縦横の糸を、しかも柄に合わせて織っていくわけでしょう。確か絣というのは。横から見たり、縦から見たり、自分の行き方という事の上にです、これはもう本当にそういう行き方というものが大事なんです信心は。
 願ったり、お詫びをしたり、お礼を申し上げたり、そこんところが出来ていくという事。ところが私共の心にはですね、段々合楽で信心させて頂いて、昨日も美登里会でございましたから、ちょっとの時間でしたけれども、かてて頂きました。
 昨日も申しましたけれども、本当に合楽の信心のああた方を見りゃ、合楽の信心は大体わかると言われたり、思われるくらいのある意味では、素晴らしい信心を永年続けておられる方達ばっかり。
 けれども、ここまではというところまでは、確かに身につけておられるけれども、そこそから先のところがね、どうもスッキリしないようですねと言うて話した事ですけれどもね。
 だからこうして、ああすれば、ああなるという事もようわかっとるけれども、私共の心の中に、成程お徳も受けたい、おかげも受けたい、いうなら日幟も毎日織りあげていきたい。けれども誘われたら遊びにも行こうごたるというのがね、私共信心の実態ではなかろうか。合楽の人達の信心の姿ではなかろうか。
 遊びに行くという事は、温泉に言ったり、お芝居に行ったりという事じゃないですよ。私共の心の中には、成程、お徳を受けにゃいけんという事が、いよいよわかる事でははわかる。けれども、そんなら私共がです、その為にはという信心には焦点が置かれてない。
 例えば、こうやって、御教えを書き溜めておる。頂いた事、話した事、又自分の心に頂いた事を、こうやって書き溜めて、こういうふうにアルバムに貼ってあるのを見せて頂いて、どのひとつをとこせて頂いても、素晴らしいな、素晴らしいなと思う。 けれども、それが徹底して、自分のものに頂くだけは頂いておるけれども、いうならば、血に肉になっていない事を本当に残念に思う。
 これはいよいよ本気で、例えば昨日熊谷さんが美登里会の時言っておられましたように、今朝の御理解を頂いて、例えば人の事どんが目につけ時には、もうてんで自分の心から神様が離れてござる時だといったような、言葉で私がお話をしておりますがあのてんでという事が、もうえらい自分の心の中に、ほんにそうだと思うたという意味の事を話しておられました。
 私共がお徳も受けたい、おかげも受けたい。そればってん、遊びにも行きたい。いい加減に例えば遊ばせて頂いて、そして日幟も織っていきたい。
 この二つものがあるかぎり、私共日幟織りにはなれないと思う。それは行こうごともあろう、遊びにも行こうごたる。けれども、その日幟織りという事が楽しい。ひとつ心が乱れれば、もう、ひとつそこに柄あいが違ってくる程しにはっきりしてる。
 合楽で一通りの信心を身につけますと、そのへんのところがはっきりしてきますから、信心が進むんじゃないでしょうかねぇ。
 だから、いうならば、引いたら足す、足したら引くといったように、間違いのないひとつの生き方というかね、心は信心の定規じゃとおっしゃるように、その定規を押し当て押し当て、信心を進めていき、これが徳であろうか、これが力であろうかというものを身に感じながら、楽しい信心生活をさせて頂きたい。
 日幟織にひとつならせて頂きたい。それは誘惑はあります。けれども、そのどっちをも、やはりいうならば、しだごだでいきながら、そして徳を受けたいというのは、やはり虫がよすぎるという事です。
 そのへんのところがです、いうなら臭いものは根から断つと言われるのを、根から断たずに、只、例えば便所が臭いならば、ナフタリンのようなものを下げたり、時々臭い消しのもんをふったりするくらいのところでです、私共いっておるような信心ではなかろうかと思うのです。
 根から断たしてもらう、これがあっちゃぁおかげが受けられんと、いっぺん気づかせて頂いた心が自分の心の中に感じられるなら、それを本気でひとつ、断たせてもらおう、根から。
 それでいてです、日幟織の楽しみというものを、成程、日々の中に様々な誘惑もありますけれども、その誘惑よりも、遊びにも行こうごたるけれども、それじゃ日幟が織れまっせんもんのというところをです、頂いていきたいなと思います。
 わが身の上におかげを受けてというのは、そういうような信心から受けていくおかげの事ではなかろうか。
 一段々と信心も進んで行く、にわかには先生にはなれない。勿論そうです。けれども、私共は、いつも同じようなところにです終始し、そのへんのところを、いつも行ったり来たりしとる信心、これは私も含めてですよ、例えばここにある、このひとつひとつがそれを身に付けてお徳の受けられる、おかげの受けられる、素晴らしい話であり御教えなのですけれども、私自身が改めてこれを見てから、素晴らしいな、素晴らしいなと思うだけで、素晴らしいものを本当に、血に肉にしてない事を、本当に悲しく思うのです。
 今日特に、根から切らなければ、遊びに行きたいという、いうなら、そういう堕落するなら、バタバタ堕落して行くだろうというような心の根というものを、本気で断たせて頂いて、日幟織の有難さ、その日その日を織りあけていくところの楽しみ、喜びが感じられる信心をさせて頂きたい。
 ☆ 修行の必要性について「悪いものでも、悪く思わぬ心で祈れ」
  もうこれなんか素晴らしいですねぇ。あれがあれがと思うような心で祈ったって祈りは通じないと。例えばあの人は悪い人だというのでも、それを悪う思う心では、悪く思わぬ心で祈れと。
 ☆ 自治の人でありたい。  どうしたら生きるか、どうしたら発展するかばかり考えている、自らを治めるのが自治性であると。
 どうしたならば繁盛するごつなるじゃろか、どうしたならば人が助かるようになるじゃろうかと、例えば教会長であるところの私が、どうしたならば人が助かるじゃろうかばっかり考えずに、どうしたならばおかげ頂くじゃろうかばっかり考えずに、もう、自ら自身をです、治めれる人でありたいという、まず自らを治めるのが自治だと その自らが治まれば、周囲は治まってくるのである。それこそ、それでない、只どうしたならばと、周囲に又は他にその事が、思われたり、願われたりしとる時には、もうてんで神様をはずしておる時も同然という事になるのじゃないでしょうかねぇ。 ☆ ひとつは怠り、ひとつはあせり、これは共に救われ難し
 ☆ どうでもよいの心を開き、よりあざやかに、味合わせて頂きたい。
  もうよりあざやかに、信心の新鮮な味わいを味あわせて頂かねばならん。内容としてね、例えば日幟織りのそれではないですけれども、ひとつは怠り、ひとつはあせる。これでは本当のおかげになりません。
 信心の有難さというものが、あざやかに有難いと味わえれるおかげを頂いてその先なのである。
 成程、今日頂きます御理解を皆さんが頂いて、これは私自身がこの中の、沢山頂いておるものが身についてない。つけにくい、素晴らしい事だけれども、いうなら難しい、合楽の信心は難しいといわれるのは、そういう事ではなかろうかと思うのです。 けれども、難しい、難しいとばかりは言うておれない。これはひとつ本気で日幟織の楽しさと喜びと同時に、私共の心から日幟織も織りあげたい、又は遊びにも行きたいという二つの心があってはならないから、その遊びに行きたいという心を、ひとつ根から断たせて頂いて、楽はせんぞとい気にならせてもろうて、神様からさせて頂く楽を頂く程しのげを頂きたい。
 そういう意味に於て、わが身の上におかげを受けるという事は、そういう事から今日はまあ、無理にそういうふうにあてはめてみんですけれども、皆さんのところで、今日私が頂いたそのところと六十二節を合わせて頂いて頂きたい。
 元から断たなければ駄目という事と、私共は本当に日幟織りという事は素晴らしい表現、日幟という事、久留米絣の事、久留米絣というのは、一糸乱れたら柄の方に一糸乱れてくる、そこんところをしかも、日々それを織りあげて行く。
 それが反物になり、手をぬかれる程しの、いうなら着物になるまでが、私は信心だと思うですね。
   どうぞ。